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風呂敷の歴史

「風呂敷」という言葉が、物を包む裂として一般に用いられるようになったのは、それほど古くはなく、江戸時代も18世紀に入ってからのことです。それまでは、包まれているものを冠して「けさづつみ」「ころもづつみ」また「おおづつみ」と呼ばれていました。中でも「平包み」は「風呂敷」よりも長い期間通用していたようです。

古くは収納のために平包み衣包みと言われ舞楽装束を包んでいたとされています。それは今の風呂敷とは違い、碧色の綾を継ぎ合わせて作ったもので、当然一般の人には手に入れることは出来ませんでした。
  
  奈良時代、奈良の尼寺・法華寺に蒸し風呂があり、スノコの下から薬草などを燃やして煙を出し、祈祷や疫病対策などに利用していたということです。そのスノコに直に座ると熱いので、筵(むしろ)を敷き、また、汗もこれに吸わせたようです。 これが、「風呂敷」の語源という説があります。

平安時代には、大きな包みをいただいて運んでいる女性が描かれたものが残っています。

葵祭り




時代が変わり、武士が台頭するようになってからは、戦で取った敵の首を、布で包むのが礼儀とされていました。戦の場では「首包」という武士らしい包みが盛んに行われていたようです。

下賀茂神社流鏑馬神事


室町時代には、将軍足利義満が建てた大きな湯屋に公家たちが招かれ入浴したとき、湯殿の下に敷いたり、衣類を間違えないように家紋を入れた
風呂敷に包んだとされています。

浴室


 

江戸時代に入り庶民に銭湯が普及し、銭湯で脱いだ衣類を包んだり、その上で着替えるのに風呂敷が用いられました。この頃から風呂敷の名前が一般に定着してきたものと考えられます。そして花見など物見遊山が大衆化したことで、風呂敷を使う機会が増えました。

男湯のれん

風呂敷の普及には技術革新によるところがあります。木綿は戦国時代の終わりまで輸入に頼っており、貴重品でした。それが江戸時代に入り次第に各地で栽培、精製が行われるようになり、木綿は麻に代わる庶民の衣料として普及して行きました。

江戸時代の火事への備えとして、風呂敷は布団の下に敷かれるようになりました。その理由は、火事が多い江戸の町で、夜でも鍋釜と布団をそのまま包んですぐ逃げられたからです。このように、普段使いの利用法と違い、代用品として手近にあるものの利用法として「早風呂敷」と名付けられたとされています。

江戸期以後、富山の薬売りを筆頭とする行商など商売の発達でも、風呂敷は広く普及していきました。上方商人が江戸で商標の入った風呂敷で評判呼び、成功を手にした話しなどは有名です。


 

 明治期以降は広く庶民の間にも普及し、結納などハレの日の場面では、必需品となりました。また商売で商品を運んだり、学校に通う時の教科書や道具を包んだりと、日常生活には風呂敷はなくてならない存在でした。

製造面では、手織機から力織機へ、小幅から広幅織物へ、自家生産から工業生産へ、天然染料から化学染料へと、西洋の技術を取り入れ、大量生産に向けての技術革新が行われました。

唐草風呂敷

 大正から昭和の初期に掛けては、化学染料が国産化され、人造絹糸(レーヨン)の製造やスクリーン捺染及びローラ捺染が開始、普及して行きました。
今も続く
風呂敷屋の中には、この頃創業した店もあります。

 


 

 戦後は新しい染色技法も開発され、また、絹や木綿以外の化学繊維も使われるようになり、さまざまな風呂敷が作られるようになりました。
終戦から昭和30年代にかけて、多くの風呂敷屋が創業、設立されました。丸和商業もそのような時代背景の中で創業、設立された会社です。
昭和40年ごろには、ナイロンの風呂敷(いわゆるボカシ染めを中心に)が引き出物などを包むのに普及し、大量生産されるようになりました。また、企業や団体などの記念品としても、各方面で風呂敷は使われました。そして昭和45年ごろ風呂敷の生産はピークを迎えます。

ナイロンぼかし風呂敷

 


 

 その後社会の生活様式の変化、紙袋やレジ袋の普及、そして高度経済成長期において様々な物が近代化する中で、風呂敷に対して古臭いとか面倒で有ると云った負のイメージを多くの方が持つなど、様々な要因が絡み、風呂敷は徐々に使われなくなって行きました。

しかし、最近では環境に優しいエコグッズとして見直されきています。以前環境大臣が「もったいない」というキーワードで風呂敷を取り上げて頂きました。

また、若い世代を中心に、日本文化を見直す風潮も高まっており、再び風呂敷が見直されています。
そしてそれは、日本のみならず海外でも日本の文化として広く認知され始めています。

風呂敷バッグ